こんにちは。
男性向けジャムウショップ「エムズジャムウマーケット」の不思議店長です。
今日は、芸能の村ウブドについてお話をしたいと思います。
ウブドと言えば芸能の村、芸術の村として有名ですね。
地区内には大きな美術館が4つあり、またギャラリーもたくさんあります。
そして、毎晩村内にいくつもある演芸場では多くのグループが伝統舞踊の公演をしています。
しかし、ちょっと考えてみてください。
バリ島の伝統舞踊はウブドだけにあるものではありません。もともと、神様に奉納したり、娯楽として生まれた伝統舞踊ですから、バリ島内どこでも盛んに行われているはずです。
また、絵画も「カマサン様式」と呼ばれる絵画はウブドよりずっと東にあるクルンクンという土地が発祥の地です。
では、なぜウブドが芸術の村、芸能の村と呼ばれるのでしょうか・・・
それには、こんな理由があるのです。
1908年クルンクン王家のププタン(ププタンについては、また後日お話したいと思います)を経て、1910年バリ島はオランダ政府の統治となりました。
バリ島を統治したオランダ政府は、バリ島各村々で行われている舞踊を制限しました。
これは、舞踊鑑賞でたくさんの村人が集まることにより、反オランダの動きが出てくることを警戒したためと言われています。特に、この舞踊の制限により「楽器として使われる巨大な竹筒が武器になる」という恐れから、ヌガラの伝統的ガムラン・ジェゴグ(巨大な竹筒を使った音楽)は、一時完全にすたれてしまいました。
しかし、ウブド村があるギャニャールは、早い段階からオランダ政府と友好を結びギャニャールにおいて舞踊公演や演芸の開催はオランダ政府から許可をされていたのです。そのため、バリ島各地から有名な踊り手や演奏者が自由に芸能を楽しむためギャニャール、ウブドに集まったと言われています。
そして、ヨーロッパから多くの芸術家がバリを訪れるようになりました。
オランダ政府に協力的だったウブドは安全であるということから、ヨーロッパの人たちの多くは田んぼと森に囲まれた美しい村ウブドに滞在しました。当時のウブドの王様チョコルド・スカワティは、ヨーロッパから来た芸術家たちを歓迎し、王宮や別荘に泊め、地元の村人たちと交流させました。
そのことにより、古くから伝わるバリ絵画とヨーロッパ芸術が融合して、独自のバリ島芸術が発展していったのです。
また、ドイツ人画家ウォルター・シュピース(Walter Spies)のウブド滞在は、ウブドを芸術の村として広く世界に知らしめる大きな要因となりました。かれは、ウブド西のチャンプアンに居を構え、芸術サロンの中心的な役割をし、バリ島の芸術、文化をヨーロッパに広く伝えました。また、チャロナラン劇を観光用にアレンジしたバロンダンスや、ケチャダンスの創造、改良に深くかかわり「バリ芸術の父」とも呼ばれています。
そして、彼らのアイディア、協力により伝統芸能を観光客に公開して、村やお寺のためのお金を稼ぐ現在の舞踊公演が確立していったと言われています。
このような経緯により、現在でもウブドは芸術の村、芸能の村と呼ばれ、毎晩多くの伝統舞踊公演が行われています。
もし、バリ島に来て本格的なバリ舞踊やバリ絵画をご覧になりたければ、ウブド村を訪れることをお勧めいたします。
日本にいたときは、美術館などま~ったくいかなかったのに、バリ島美術館は積極的に回っている不思議店長のお店「エムズジャムウマーケット」は、こちら